「洗濯と選択」
「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。」
旧約聖書 詩編51篇12節
(主イエスの言葉)「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」
新約聖書 マタイ福音書5章8節
聖書によれば、この世界を良いものとして造られたまことの神は、私たちのことも清い心を持つものとして造ってくれました。しかし罪
―聖書によれば、罪は悪い行いではなく、神から離れてしまった悪い状態— によって、私たちは清い心を失ってしまったのです。それでも神は私たちを愛し、主イエスによって清い心をもう一度与えてくれるのです。
ですから、主イエスを信じることは心の洗濯です。ただし、それは私たちが神に対して頑張ったことではなく、神が私たちに対して頑張ってくれたことなのです。イエスをまことの神の子と信じる選択ができたのは、神が苦難の中でも私たちを守り、救いの確信へと導いてくれたことがありました。
ここで一つのイメージを語ります。
お気に入りの服が汚れたとき、私たちはその服を捨てません。その服が清くなるために洗います。そのとき、服を清くするのは服自身の努力ではありません。その服のために働くものたちの努力によって、服は初めて清くなるのです。
同じように、神は主イエスによって私たちが清くなるようにと願い、そのために働いてくれます。だから大事なことは、自分を清くするために何かをすること(doing)や何者かであること(being)ではなく、神とイエス・キリストによって何かになること(become)なのです。
教会はそのことに目が開かれ、共に喜ぶ集まりです。時々、教会は清い心を持つ者たちの集まりだと言う人がいますが、そんなことはないのです。誤解を恐れずに言えば、教会は罪人の集まりなのです。人生に疲れ果て、家族を愛することに負い目を持ち、心から誇れるものは何もない私たちです。そんな私たちを神は選び、清めてくださるのです。
「神よ、私たちを清め、あなたの働きのために用いてください。」