3月のニューズレター
幼い頃より、私は両親と一緒に教会に通っていました。そして聖書の言葉に親しんできました。小学生の時、主イエスを信じる告白をし、バプテスマを受けました。
中学、高校に進むと、聖書の言葉が自分とどう関わっているのか分からなくなりました。それで教会を離れようとしました。そんな時、教会学校で一人の女の子が聖書の言葉をいくつも暗唱したのです。私はこう思いました。「自分は聖書の言葉は何の役にも立たないと思ったけど、聖書の言葉を一つも暗唱できない。だから頑張って聖書の言葉を覚えよう。教会を離れるのはそれからでも遅くない。」そして聖書の言葉を紙に書き出し、口ずさみ、言葉を一つずつ覚えていきました。そうしたら、聖書の世界が豊かに広がり、これは自分のことを言っているということが段々と分かるようになりました。聖書の言葉が私の喜びとなり、私の道を照らしてくれたのです。
数年前、忘れられない出会いを聖書の言葉としました。それはヨハネ福音書に出てくる「盲人の癒し」の物語でした。私は聖書の言葉が教会の人々の出来事になっていないと思う時、その言葉を使うことを控えるタイプの牧師です。だから教会の中であえて使わない(使えない)言葉をたくさん持っていました。その一つが「見える」という言葉でした。聖書で「見える」は、「信仰者が神の働きを見る」という意味です。しかし、この言葉を使える時がきたのです。私は「見える」という言葉を礼拝のメッセージで使いました。礼拝に、盲人の方も来ていました。礼拝後、その方が次のように言われました。「今日の聖書の言葉はとても痛かったです。私のことが言われていたからです。」この方の言葉に耳を傾けながら、私の中で次の思いが生まれました。「ここに聖書の言葉を共に聞く人がいる。」
今、私は教会の人々、そして自分の子どもたちと一緒に聖書の言葉を聞いています。そして私の最期の時には、教会の人々や家族が私に聖書の言葉を読んでくれるはずです。私自身、そういう教会の一人とされていることを思うからです。
三鷹バプテスト教会
牧師 秋山献一