2月のニューズレター
マルコ福音書3章31~35節を読むと、私たちは話を上手くまとめたくなります。または聞かなかった方が良かったと思います。イエスが家族について語った場面は、家族が良くなるよりも混乱するのです。しかも今日のところは、イエスが自分の家族の心を引き裂いた場面なのです。イエスは自分の家族を全否定しました。そして新しい家族を示されました。古いものが過ぎ去り、新しいものが生じたのです。しかし、それで良いのでしょうか。
私たち、自分の人生をそれなりに歩んでみると、また他人の人生に少なからず触れてみると、ことはそう簡単ではないことを学びます。古いものにも意味があり、何よりも古いものが大事なことを語りかけてくれることを知ります。
私が鹿児島の教会で研修をした時、とてもお世話になった人がいました。毎晩の食事を世話してくれたのです。その人は生まれつき体に麻痺を持っていましたが、自分を育ててくれた親が、誰にも迷惑をかけずに生きていけるようにと育ててくれた、その親はもう亡くなったけれども、雑貨屋の仕事を残してくれたというのです。ですから自分はバプテスマを受けて教会の一人になりたいけれども、亡き親のことを考えるとできないというのです。親が今も自分に語ってくれているというのです。
そのように考えている人に、イエスはきっとこう言われるでしょう。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」と。「神の御心を行う」とは一体何でしょう。ちょうどこの後、イエスは種蒔きのたとえ話をされました。神の言葉を聞いて行うことが、どれほど多くの実りを人生にもたらすのか、そのことを語ったのです。そして最後に「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われたのです。
神は人間に聞く耳を与えられました。そして面白いことに、そのことが私たちにとって最も嬉しいこと、誇らしいこととなるのは、私たち大きく成長した時ではなく、成長している最中なのです。2歳の娘は聞いたことを嬉しそうに行います。ですから今日の聖書の場面、イエスが自分の話を聞いていた人々を見回し、「ここにわたしの家族がいる」と宣言された時、そこには様々な人がいたと思うのです。・
一年前、バプテスマを受けたHさんは教会に来る前、自分に何かが欠けていると思ったそうです。自分は親に言われたように頑張ってきたけれども、心から人に仕えることがないと思ったのです。それで新しい生き方を求めて教会にきたのです。教会でそれを聞けると思ったのです。教会は彼を救うどころか戸惑わせました。彼が言うには、自分は話を聞きに教会に来たのに、逆に自分の話を教会の人々が聞いてくれたというのです。つまり教会の人々が自分の家族のようになってくれたというのです。
それはイエスが弟子たちに言われたことでもあります。今日の聖書箇所、イエスは家族に新しい基準を設けました。聞いて行うことです。私たち、そのことを2歳の子よりは上手くできないかもしれませんが、それでもイエスが言われた通りに行うとき、私たちも子どものように嬉しくなりますし、誇らしくなるのです。そのような人に、イエスは次のように言われるのでしょう。「ここに私の弟、妹がいる。また、私の息子、娘がいる」。
*教会員の家庭集会で行ったメッセージを読み物にしました。家庭集会で最も嬉しいことは、聖書の言葉が、聞いた一人一人によって素直に広げられ、互いに驚きと感動が与えられた時です。まさに一つの家が主の教会のようになるのです。
三鷹バプテスト教会
牧師 秋山献一