2018年11月4日日曜日

2018年11月のニューズレター


11月のニューズレター

私の好きなジョークより:
ある男性が日曜の礼拝にはもう行きたくないと思い、そのことを母に伝えた。熱心なクリスチャンである母は息子にこう言った「あなたには礼拝に出なければいけない三つの理由があります。
一、  神さまがそれをお望みです
二、  教会の人々があなたを待っています
三、  あなたはその教会の牧師でしょう」

 私の父も牧師をしている。子どもの頃、父を見ていて不思議に思ったことがある。今日のパンを求めて教会に来た人たちに向かって、父はパンを渡すだけでなく、「どうぞ日曜の礼拝にも来てください」と伝えたことだった。私にはそれが不思議でしょうがなかった。
 今日のパンを求めた人たちは必死だ。なかには明らかな作り話をしてお金を求める人もいた。それだけ必死だった。彼らには明日のパンが必要なのだ。それに対して日曜の礼拝にどれほどの力があるというのだろう。
 礼拝には力がない。それは外にいる人よりも、教会の中にいる人々によく見られる態度である。国際基督教大学の学長であった古屋氏は「日本のクリスチャンの平均寿命は3年」と指摘したが、これはイエスを自分の救いと信じてバプテスマ(洗礼)を受けたにも関わらず、礼拝に来なくなった人々を指している。この事実は、礼拝に力がないことを多くのクリスチャンたちが信じている証拠でもある。
 キリスト教の国と呼ばれるアメリカでも同じことが起きている。多くのクリスチャンが自分はクリスチャンではあるが、礼拝にはもう行かないと言っている。その理由を小説家プライスは次のように述べている。「教会に久しぶりに行くと、すぐに話しかけられるのは、リトルリーグのコーチをしてもらえないか、水曜の夜の集会で話してもらえないか、あるいは日曜の午後の男性ハンドベル・クワイヤーの練習があるが来てみないか、ということでした。教会はあらゆることをとりそろえた娯楽施設になってしまいました。本当は神が生きておられる所でなければいけないのに」。
 教会が娯楽施設になることが決して悪いとは思わない。ただ一つ、私たちは生きた神を自分の場所に取り戻す必要がある。そして神を失った人々に神を与えなければならない。どうやって。方法は一つ、礼拝だ。力を失った礼拝にもう一度力を与えることだ。それは冷めたみそ汁を温めなおすことに似ている。飲むと私たちの心と体が温まる。
 最近、礼拝に再び来られる人が増えて来た。幼い頃に家族や友だちと来ていた、一度はバプテスマの準備をしていた、背景は様々だが、それぞれの中に神の恵みを見るような思いがする。神はその人を見捨てず、礼拝に来る力を与えてくれたのだ。
 だから次の日曜日、あなたが礼拝に来ても不思議ではない。神がそれを望まれたのだ。

牧師 秋山 献一

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