9月のニューズレター
「涙の先には」
涙は美しいものなのだろうか。たしかにオリンピックで涙を流すメダリストとその生い立ちを連日報道したメディアは涙が人の心を揺さぶることを証明したかもしれない。しかし誰でも涙を流せばそれが即感動を生むというわけではないだろう。涙が流された背後に人々を強力に惹きつける物語がなければ、または作られねば大衆は決して感動しないはずだ。
昔、芥川賞作家の講演を聞いたことがあるが、その人はこんなことを言っていた。「人を泣かせる話を書くのは簡単。作中の誰かを殺せば良いのですから。むしろ人を笑わせる話を書くのは本当に難しい」物書きの苦しみがそこで垣間見えるが、もしかしたらこれは創造的な仕事に従事する人に起こり得る葛藤、または出来事ではないだろうか。当時、世界映画史上最高の世界興行収入を出した『タイタニック』(1997年)を撮ったジェームズ・キャメロン監督はこの映画がヒットした理由を「国によって笑うところは違う。しかしニューヨークでもパリでもロンドンでも東京でも、モスクワ、ローマ、マドリッドでも泣くところは一緒だった」と評していた。だからといってキャメロンは決して『タイタニック』が涙を売り物にした陳腐な映画だと言っているのではないが。
聖書の一節には「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」という言葉がある。これがキリスト教の姿勢なのだろう。つまり涙は人を感動させるためではなく、その先にある喜びのためにある大事な助走期間だという意。しかし涙を拭いて喜びに生きることには勇気が必要だ。むろん一人強く生きる勇気のことではない。神に悲しみをゆだねる勇気のことだ。それがなければ「人が一番涙を流すのは教会を除けば葬式だ」(つまり教会は泣いてばかりで、しかもそれに酔っている)と言った偉大な毒舌家マーク・トゥエイン(アメリカの小説家、『トム・ソーヤーの冒険』『王子と乞食』などを執筆)の皮肉が貴方の耳に鳴り響くことになるだろう。
先日、知り合いの方よりお葉書をいただいた。この方は数年前に最愛のご主人を亡くされ、多くの涙を流された方だ。今でも涙の中に佇んでいるのだろうか。葉書は次のように私に語ってくれた。「やっとバプテスマを受けることになりました。長い道のりでしたが…」
「長い道のり」であっても、「喜び」にまさるものはないのだと思う。
「主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙をみた」
(聖書の一節より 列王記下20・5)
2012年9月1日 三鷹バプテスト教会牧師 秋 山 献 一